前回、会社の飲み会を批判する記事の最後に「誤った
協調性」という表現を用いた。管理者を含め、飲み会を
嫌うような層は、同時に協調性という言葉も聞くだけで
虫唾が走るレベルで嫌っているだろう。
子供のころの学校の通信簿にも必ず出てくるこの協調
性という言葉は、なぜ協「調」性なのか、なぜ協「力」
性と呼ばないのか、そういう観点から、この言葉の欺瞞
(ぎまん)をあぶり出していこうと思う。
■協調性の本来の意味
協調性の本来の意味は「利害の一致『しない』者同士
が『お互い』に歩み寄ること」である。強調したように、
双方向なのである。しかし現実はどうだ? 連中が自分に
歩み寄ったことなど、ただの1度たりともないだろう。
連中の価値観は絶対に動かない。現実は少数派が多数
派に、頭のいい人たちが頭の悪い連中に、「一方的に」
合わせる性質になり下がっているのである。これは協調
性ではなく同調性である。
学校の通信簿についても、周囲に合わせてやっている
という「実際の結果」ではなく、周囲に合わせてやって
いるという「その態度」で評価している教師が圧倒的に
多数である。
そんな体たらくで、教職に携わる連中の永遠のテーマ
であるいじめ問題を撲滅できるとでも本気で思っている
のだろうか? そもそも、いじめは集団主義が原因である
と端的に言える教師がどれほどいるだろうか?
■協調性がないのはそのとおり
こういう協調性という言葉の欺瞞がわかっていたから
といって、自分に協調性がないのはそのとおりであるし、
そのことについて恥じるつもりもさらさらないのである。
なぜなら、その同調する事象に価値がないからである。
連中が同調を求めてくるその事象は、例外なく論理的、
道理的に間違っているからである。まして、非国民など
と攻め立てるほどの事象が正しかったことなど、歴史上
ただの1度たりともないのである。
個人主義者に多いが、この手の問題に悩まされ、とき
には歴史に学ぶことをした経験のある者であれば、事象
を多数決で判断することはない。あくまで論理的、道理
的な観点から判断しているのである。逆張りとは違う。
■新型コロナワクチンの強要という例
まさに現在進行形である、新型コロナワクチンの強要
こそが最たる例である。そもそも、新型コロナワクチン
の化学的な視点だけでも、インフルエンザワクチンとは
比較にならない、数年後の生死を分かつほどの毒である。
まして、そういう情報を調べもせず、2021年から開始
している尋常でない超過死亡の事実も知らず、何年も前
から政府が大本営と化している事実も知らず、その政府
の言うことをうのみにして、強要してきているのである。
しかも「思いやりワクチン」などというくだらん言葉
まで使っているのである。連中が自分に対して思いやり
をかけたことなど、ただの1度たりともない。その言葉
が響くとでも本気で思っているのだろうか?
結果、接種者はスパイクたんぱく質やコロナ変異種を
放出して逆に周囲に迷惑をかける体となり、非接種者は
以前と変わらない。表面上の態度を優先することの愚か
しさの最たる例である。世の中、結果がすべてなのだよ。
■まとめ
筋金入りの個人主義者にとっては、上記の内容など今
さら感であるほど過去の経験で幾度となく見てきたこと
であり、ときには哲学などに情報を求めて歴史に学んで
きたことである。何もコロナ騒動が特別なわけではない。
個人主義者は、自分が個人主義であることを自覚して
歴史にも学んでいるが、集団主義者は、元より集団主義、
個人主義という概念すらなく、ゆえに歴史に学ぶという
境地にもたどり着けない。
今はディープステート(影の政府)との見えない戦争の
最中である。見えない分、終戦したら突然に集団主義者
は経験にすら学べない愚者であったことが確定し、その
称号が(残り短い)生涯つきまとうことになるのである。
自覚、無自覚に関わらず、集団主義者であり、周囲に
実害を及ぼすことは、それほど罪深いことであるという
現実をこれから突きつけられることになる。そして、今
さらそれを悔い改める時間はもうないのである。