2023年01月03日

協調性という言葉の欺瞞(ぎまん)


 前回、会社の飲み会を批判する記事の最後に「誤った
協調性」という表現を用いた。管理者を含め、飲み会を
嫌うような層は、同時に協調性という言葉も聞くだけで
虫唾が走るレベルで嫌っているだろう。
 子供のころの学校の通信簿にも必ず出てくるこの協調
性という言葉は、なぜ協「調」性なのか、なぜ協「力」
性と呼ばないのか、そういう観点から、この言葉の欺瞞
(ぎまん)をあぶり出していこうと思う。

■協調性の本来の意味

 協調性の本来の意味は「利害の一致『しない』者同士
が『お互い』に歩み寄ること」である。強調したように、
双方向なのである。しかし現実はどうだ? 連中が自分に
歩み寄ったことなど、ただの1度たりともないだろう。
 連中の価値観は絶対に動かない。現実は少数派が多数
派に、頭のいい人たちが頭の悪い連中に、「一方的に」
合わせる性質になり下がっているのである。これは協調
性ではなく同調性である。

 学校の通信簿についても、周囲に合わせてやっている
という「実際の結果」ではなく、周囲に合わせてやって
いるという「その態度」で評価している教師が圧倒的に
多数である。
 そんな体たらくで、教職に携わる連中の永遠のテーマ
であるいじめ問題を撲滅できるとでも本気で思っている
のだろうか? そもそも、いじめは集団主義が原因である
と端的に言える教師がどれほどいるだろうか?

■協調性がないのはそのとおり

 こういう協調性という言葉の欺瞞がわかっていたから
といって、自分に協調性がないのはそのとおりであるし、
そのことについて恥じるつもりもさらさらないのである。
なぜなら、その同調する事象に価値がないからである。
 連中が同調を求めてくるその事象は、例外なく論理的、
道理的に間違っているからである。まして、非国民など
と攻め立てるほどの事象が正しかったことなど、歴史上
ただの1度たりともないのである。

 個人主義者に多いが、この手の問題に悩まされ、とき
には歴史に学ぶことをした経験のある者であれば、事象
を多数決で判断することはない。あくまで論理的、道理
的な観点から判断しているのである。逆張りとは違う。

■新型コロナワクチンの強要という例

 まさに現在進行形である、新型コロナワクチンの強要
こそが最たる例である。そもそも、新型コロナワクチン
の化学的な視点だけでも、インフルエンザワクチンとは
比較にならない、数年後の生死を分かつほどの毒である。
 まして、そういう情報を調べもせず、2021年から開始
している尋常でない超過死亡の事実も知らず、何年も前
から政府が大本営と化している事実も知らず、その政府
の言うことをうのみにして、強要してきているのである。

 しかも「思いやりワクチン」などというくだらん言葉
まで使っているのである。連中が自分に対して思いやり
をかけたことなど、ただの1度たりともない。その言葉
が響くとでも本気で思っているのだろうか?
 結果、接種者はスパイクたんぱく質やコロナ変異種を
放出して逆に周囲に迷惑をかける体となり、非接種者は
以前と変わらない。表面上の態度を優先することの愚か
しさの最たる例である。世の中、結果がすべてなのだよ。

■まとめ

 筋金入りの個人主義者にとっては、上記の内容など今
さら感であるほど過去の経験で幾度となく見てきたこと
であり、ときには哲学などに情報を求めて歴史に学んで
きたことである。何もコロナ騒動が特別なわけではない。
 個人主義者は、自分が個人主義であることを自覚して
歴史にも学んでいるが、集団主義者は、元より集団主義、
個人主義という概念すらなく、ゆえに歴史に学ぶという
境地にもたどり着けない。

 今はディープステート(影の政府)との見えない戦争の
最中である。見えない分、終戦したら突然に集団主義者
は経験にすら学べない愚者であったことが確定し、その
称号が(残り短い)生涯つきまとうことになるのである。
 自覚、無自覚に関わらず、集団主義者であり、周囲に
実害を及ぼすことは、それほど罪深いことであるという
現実をこれから突きつけられることになる。そして、今
さらそれを悔い改める時間はもうないのである。
posted by iceage at 18:31| Comment(0) | 個人主義と集団主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年12月18日

コロナ禍で淘汰された会社の飲み会


 当サイトを訪れるのは、管理者と同様に氷河期世代、
またはそれに近い世代、早期リタイア(を目指す)界わい
にいた名残でふだんから節約と資産運用をしている層と
いったところと思われる。
 そういう層からすれば、会社の飲み会など以前と変わ
らず金も時間も精神も浪費する絶対悪と言わんばかりの
ものであろう。なぜ会社の飲み会をそれほど毛嫌いする
のか、改めて考えてみることにする。

■出欠確認

 飲み会を開催するにあたり、事前に出欠確認を取り、
日程を決定するわけであるが、エクセルなどで作成した
その一覧表の最終列になぜか「備考」が設けられている
のである。
 そんなものが設けられているというその事実だけでも
すでにウンザリである。欠席する場合に理由を記述する
ためのものとして設けたのだろうが、おめおめと理由を
記述する気の小さい者たちもまた嘲笑ものなのである。

 職場によっては欠席と回答した者たちに対して幹事が
わざわざ直接理由を聞きに回るというケースも話に聞く。
そのケースに対する切り返しは「出席『する』人たちに
直接理由を聞いて回らないのですか」とでもすればよい。
 「マジョリティ(多数派)の無自覚なごう慢さ」の典型
例であり、個人主義者は日常生活で常に気をつけている
部分である。新型コロナワクチンを接種しないのも同じ
理屈であり、多数派は常に誤った選択をするものである。

■まずい、高い、体に悪い酒という飲み物

 単純に酒という飲み物をちっともうまいものだと思わ
ない。そこに回す金で、うまい食べ物のほうを食べたい
のである。おまけに体に悪いとまで来たもので、どこに
メリットがあるのかがさっぱりわからない。
 ビールは苦さを超えたところにうまさを感じるように
なると言われるが、管理者は苦いままで止まってそれを
超えようとも思わないまま20年以上が経過した。やはり
今後も超える必要性を感じない。

 これが20年前だと、「とりあえずビール」などという
のが平然とまかり通っていたが、さすがに現代ではなく
なっただけマシであろう。もっとも、昔であろうが自分
が飲みたくないものは注文しなかったものである。
 管理者は、「ビールをうまいと感じて飲めれば大人」
などというくだらん価値観に合わせるような性格はして
いないし、ブラックコーヒーやお茶すら飲まないタイプ
である。飲みたくないものは飲まない、それだけである。

■食べ物を残すのが当然という風潮

 食べ物を残して平然としている光景を見るのも、耐え
難いものである。あれも、何度も飲み会へ出席してその
光景を見ているうちに「飲み会とはそういうもんだ」と
いう感覚に陥って麻痺しているのだろう。
 管理者は食べ物の好き嫌いは多いほうであるが、自分
がよっぽど嫌いか食べられないもの以外は完食すること
は心がけている。しかし、連中は好き嫌いすら関係なく、
完食しようという気すら感じられないのである。

 陰謀追究の世界だけでなく、すでに「表」の世界でも
食糧難が来ると言われている一方、こうやって大量生産
と大量廃棄を行っている現実がある。そういう社会問題
にも無頓着であることがかいま見えるのである。

■つまらない話題

 今でこそ人の趣味が多様化した時代だから話題が偏ら
ないものの、管理者が社会人になりたての頃は男の話題
などすべてと言っていいくらい車か音楽の話題に偏って
いたものである。どちらも興味がないのである。
 管理者にとっては、車など移動手段というだけの存在
にすぎず、極力運転したくないとすら思っている。当時
の音楽など、どこかバブルの残り香がただようお花畑な
ものばかりであったであろう。

 日本の今は、WOW WOW WOW WOWとはほど遠いよなぁ?

■声を張り上げなければならないわずらわしさ

 人は酒が入るとふだんより声が大きくなり、居酒屋の
内部構造によってはほかの客からの声も加わりうるささ
に拍車がかかる。そんな中で会話をしなければならない
ので声を張り上げなければならなず、わずらわしい。
 あの場に順応し、しかもふだんではしないような超絶
でかい声でのバカ笑いができる神経をみじんも理解でき
ない。飲み会を嫌う人たちが共通して思っていると思わ
れるが、動物園のサルそのものである。

■コロナ禍で淘汰された飲み会

 そんなわずらわしい飲み会もコロナ禍できれいに淘汰
されたわけであり、清々している者も多いだろう。別に
コロナ単独では大した脅威ではないと気づいている者に
とっては、むしろコロナ様様であろう。
 これまで飲み会の場でバカ騒ぎをしてきたことを反省
する連中がどの程度いるかはわからないが、仮にコロナ
禍が明けたとしても、これまでの飲み会は不要であった
として、実施しないとする動きも出てくるだろう。

 そちらのほうが今後の潮流であり、それを理解できず
社員に無駄な負担を強いる飲み会を復活させたり、オン
ライン飲み会などというこざかしいことをしていると、
その組織や会社は世の中から淘汰されることとなる。

■まとめ

 管理者はコロナ単独では大した脅威ではないと感じて
いる以上、飲み会の出欠をコロナで判断することはない。
昔から一貫して、出席したくなければ出席しない、それ
だけの話である。
 たかが飲み会ではない。飲み会ひとつとっても、そこ
から社会問題をかいま見ることができるのである。誤っ
た協調性で他者を不快にし、そのことに無自覚な連中は、
今後の新時代では淘汰されていくこととなる。
posted by iceage at 21:27| Comment(0) | 個人主義と集団主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2022年01月01日

年末から当面はサイレントテロ強化期間


 サイレントテロを実践している人たちなら当然わかっ
ていると思うが、年末から当面は特に注意するべき期間
である。下記に列挙したことをすることのくだらなさで
ある。

a)忘年会に出席する。
b)年賀状を書く。
c)クリスマス(またはイブ)にチキンを食べる。
d)クリスマス(またはイブ)にケーキを食べる。
e)クリスマス(またはイブ)に異性と性夜を過ごす。
f)クリスマスプレゼントを買う。
g)実家へ帰る。
h)大みそかに年越しそばを食べる。
i)大みそかに紅白歌合戦を見る。
j)年末ジャンボ宝くじを買う。
k)正月におせち料理を食べる。
l)正月にもちを食べる。
m)正月に初日の出を見に行く。
n)正月に初詣に行く。
o)正月に子供、孫、親戚の子供などにお年玉をあげる。
p)正月に自分の親、配偶者の親にあいさつ回りに行く。
q)正月に福袋を買う。
r)新年会に出席する。
s)恵方巻を食べる。
t)バレンタインデーにチョコレートを買う。

■サイレントテロ

 サイレントテロとは、腐り切った大企業の買いあおり
には耳を貸さずに非消費を貫き、その大企業を衰退させ
ようとする思想である。金がない人たちが実践する場合
には自爆テロという側面も持ち合わせている。
 管理者は陰謀追究の世界に踏み込む前からこれを知り、
実践もしてきたが、これはどうやら決してルサンチマン
というわけではなく、本当にこの腐り切った世界をよく
するための思想であると確信するようになった。

 「サイレントテロ十訓」というものが定められている
が、これは電通の「戦略十訓」が元になっている。その
電通など、ディープステート企業の最たるところであり、
それに抗う思想と考えればよくわかることである。
 さして必要でもなくしかも粗悪なものを、さも必要で
あるかのように演出して買いあおるというだけでなく、
その裏にある消費者軽視、生命軽視、環境軽視といった
ものもかいま見えるのである。

■イベントの起源

 年末からバレンタインデーまでさまざまなイベントが
存在するが、それらの起源をたどれば果たしてその消費、
いや浪費行動がいかに間違っているか、イベントに乗じ
て好き勝手なことをやっているかがわかるだろう。
 管理者が知らなかっただけかもしれないが、恵方巻を
過剰に売りつけるようになったのは、ここ数年であった
ように思う。また、年末より前になるが、ハロウィンを
やるようになったのもここ数年ではなかったか。

 恵方巻は男のアレをくわえることが起源になっている
のにそれを知らずに食べる愚かしさである。クリスマス
イブはいつからチキンやケーキを食べ、性夜を過ごす日
になったのであろうか。
 おせち料理は正月に働かなくていいようにするための
保存食が起源であり、まずいのが当然である。しかし、
正月でも食材が手に入る現在においてもそのまずい料理
を、まして正月早々からわざわざ食べているのである。

 別に騒ぎ立てなければ浪費行動など何も起こらないと
いうところにイベントを立ち上げ、その起源などお構い
なしに適当に粗悪な商品を売りつけ、惰性で生きている
連中はそれをすっ高値でつかまされるわけである。

■大量生産、中程度浪費、大量破棄、自爆営業

 特に食べ物関連においては、そんなイベントのせいで
どれほどの生命が犠牲になっているか。陰謀追究の世界
では食肉生産現場の惨状は嫌でも情報が入ってくる機会
が多いため、なおさら想像に難(かた)くないのである。
 それだけ大量生産されたものがすべて浪費されるなら
ともかく、結局大量に余らせて大量破棄することになる
か、従業員が自爆営業させられることとなる。上級国民
と愚かな浪費者以外誰も幸せにしないシステムである。

 生命の犠牲を考えるなら、サイレントテロなどせずに
犠牲を無駄にしないためにも購入すべきという声が聞こ
えてきそうであるが、それはお門違いである。すべては
こういうイベントを利用する企業側の責任である。
 むしろ、消費者の側がこういうイベントにはいっさい
加担しないということをいっせいにやるか、上級国民を
早いところ戦争犯罪でいっせいに粛清するくらいのこと
がない限り、この流れは止まらないだろう。

■「つまらない奴」というレッテル貼り

 こういうイベントに乗らない者に「つまらない奴」と
レッテルを貼るのも、イベントを維持したい側の策略で
ある。集団主義の性質を利用して、そのレッテルを貼ら
れるのを嫌うように仕向けられているのである。
 学校の集団主義洗脳去勢狂育の時点で、協調性がある
とかないとか、明るいとか暗いとか、陽キャとか陰キャ
とか、ポジティブとかネガティブとか、くだらん価値観
を植え付けてきた成果であろう。

 この手のレッテル貼りも、数十年前からすでに哲学者
に語られている集団主義の性質の典型的パターンであり、
マジョリティの無自覚なごう慢さから出た怠惰な言葉で
あることがわかっていれば、動じることはない。
 サイレントテロには冠婚葬祭に金を落とさないという
考え方もある。通常であれば「人でなし」とレッテルを
貼るところであろうが、それによって冠婚葬祭が聖域化
され、やりたい放題である実情を見越しているのである。

■新型コロナウイルスで気づくというのは幻想

 昨今は新型コロナウイルスの影響で実家へ帰ることを
制限され、いよいよそれが本当に必要な行動であるのか
に疑問を持つようになった者がいるのであろうか? まあ、
そんなところで気づくようでは遅すぎるのである。
 コロナや5Gの実情を知る者であれば、実家へ帰ること
をコロナで判断することはないし、以前からサイレント
テロを実践する者であれば、コロナや5Gの実情を見抜く
ことも容易であろう。

 残念ながら、いまだにコロナは怖いとか5Gの危険性を
認識していないような連中は、仮にコロナの脅威がなく
なったと「世間様」が判断すれば、以前と同様に疑問も
抱かずに実家へ帰ることを再開するのである。
 よりによって、そういう連中は当然コロナワクチンを
接種しているだろうし、そういう連中が集まる空間には
スパイクたんぱく質が充満することになる。気づいた者
たちにはますます実家へ帰る理由がなくなったのである。

 初詣もコロナの影響をどこまで受けているのかは知ら
ないが、惰性で生きている連中がこぞって集まるような
場所であるから、そこで祈る内容も私利私欲にまみれた
ドス黒いものになることは想像に難くない。
 スピリチュアル的な観点からは相当に低い波動が充満
していることになる。まして今年からはコロナワクチン
接種者がまき散らすスパイクたんぱく質の霊障まで低い
波動に乗っかることになるからたまったものではない。

■まとめ

 もはやサイレントテロで腐り切った大企業に嫌がらせ
をしようという段階ではなく、そこに存在するさまざま
な社会問題を本気で解決するべき段階に迫っているので
ある。
 前提条件を見直し、大義を見直し、本当に必要な消費
をしているかどうかを考え、適切な消費行動をとること
が、腐り切った大企業を衰退させ、本当に必要な企業を
繁栄させ、最小不幸社会を作る一歩となりうるのである。

https://twitter.com/Tetoitonuno/status/1474596245239119882
https://twitter.com/prism31415/status/1475258861309538304
posted by iceage at 19:07| Comment(0) | 個人主義と集団主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする