・執着しないという執着
・べき論を使う「べき」ではないという矛盾
・足の引っ張り合いという足を引っ張る行為
やっぱマジでウケる。
簡単に矛盾を指摘できる、スピリチュアリストやスピ
かぶれの陰謀追究者の連中が好きそうな言葉を追加して
みた。もっとも、こういう連中でなくても使用している
場面を見かける言葉もあるが…。
■本当に足の引っ張り「合い」なのか
「足の引っ張り合い」など、管理者からすれば明白な
思考停止ワードである。「世間様」の間ではもはや慣例
的に使われており、本当に足の引っ張り「合い」なのか
もロクに見ず、脊髄反射で発しているからである。
そういう対立の一部始終を見たうえで、双方とも論理
性、道理性に欠けるというのであれば、言葉どおり「足
の引っ張り合い」でもよいのだろうが、実際はそうでは
なかろう。
論理的、道理的に考えた結果、敵対する相手は論理性、
道理性に欠けるから間違っており、その考えに基づいて
行動する自分は正しいから、相手が「一方的に足を引っ
張る」行為であると、自分はそう言っているのである。
そういう「一方的に足を引っ張る」行為に対しては、
引っ張る手を踏みつけ、顔面に蹴りを入れるのは当然で
あり、「足の引っ張り合い」などとわかったように軽口
をたたく連中も同じ勢力であるとみなすのも当然である。
■上から目線なのはどちらか
さて、「世間様」だけでなく、この界わいでさえも、
ごう慢、上から目線、コントロール、支配といったもの
が絶対悪であるという感覚は変わらないらしく、管理者
には理解の外であることは以前説明したとおりである。
「足の引っ張り合い」などという言葉を、対立の一部
始終をロクに見ず、無自覚に脊髄反射でわかったように
発し、我関せずという態度でいることのほうがよっぽど
上から目線に見えるものである。
毎度同じ結論にしかならないが、結局集団主義という
畜生道を抜けて「こちら側」の界わいに来たつもりでも、
その価値観は大して変わることはなく、欺瞞(ぎまん)を
無自覚に語り続けているのである。
スピリチュアルばかりを勉強してほかの分野の勉強、
とりわけ論理学をおろそかにする連中には永劫理解でき
ない感覚であろう。「一方的に足を引っ張る」連中だけ
でなく、それに加担する連中にも心底ウンザリである。