2023年01月29日

「考える」ことは合理的であるというだけ


 以前、管理者は、考えているようで実は何も考えてい
ない連中とは馴れ合うつもりはないことを主張したが、
この「考える」ということについてどう考えているのか
をもう少し詰めて説明していく。
 結論から言えば、「考える」ということは、否応なく
降りかかるくだらん現実を生き抜くために仕方なく実施
する合理的な手段であるというだけであり、それが絶対
的に正しいというわけではないのである。

■「考える」ことが絶対的に正しいという勘違い

 陰謀追究の世界を眺めていると、その世界へ踏み込ん
だのだから「それなりに」考える連中がいることは事実
であろうが、「考える」ことが絶対的に正しいと勘違い
した連中が後を絶たないのである。
 しかも今回のコロナ騒動で、医者を始めとする高学歴
な連中が判断を誤る(かまたはわざとそうしている)様を
見て、頭のよさと自頭のよさが強い負の相関関係にある
と言わんばかりの奴もいるから始末に負えない。

 「『考える』ことが絶対的に正しい」はそもそも命題
でないのだから絶対的に正しいわけではないのは当然で
あるが、管理者がなぜそう思うのか、上記のような連中
が間違っていると思うのか、その具体例を見ていく。

■国や企業が従順な奴隷を求めているというウソ

 「考える」ことが絶対的に正しいとしている連中は、
自分たちの主張することがブラック企業の求める人物像
と同じであることをわかっているのだろうか? こういう
界わいに居続けて、感覚が麻痺しているのである。
 学校という閉鎖空間で行われているのは集団主義洗脳
去勢「狂」育であることは確かに事実である。ゆえに国
や企業は従順な奴隷を求めているから、「考える」こと
が絶対的に正しいとでも思っているのだろうか?

 本当に国や企業が従順な奴隷を求めているのであれば、
氷河期世代はもっと救われていたはずである。別に企業
に的確な指示を出す能力があり、最低でも社員が不満を
抱えない程度の給与を払えれば問題ないからである。
 そもそもイス取りゲームのイスが少ないうえにコミュ
ニケーション能力とかいう意味不明なものを求め、学歴
はむしろ不要という態度を企業が不意打ちのようにとっ
たから、氷河期世代は混乱し、疲弊したのである。

 知れたことである。バブルで日本経済を食い散らかし
た後始末が面倒である、というかできないから、後から
入ってくる氷河期世代にそのツケを押し付け、自分たち
ですら到底なれないような人物像を求めたのである。
 要するに、ルーチンワークは当然やりたくない、それ
を円滑に実行させるための的確な指示すらも考えるのが
面倒だから、それすらも後の世代に丸投げし、何もせず
に金だけがほしいと言っているのである。

 国はあの時代から本格的に新自由主義へ傾き、企業も
それに合わせた形をとっているにも関わらず、教育現場
はいまだ旧態依然としたシステムを維持したままであり、
わざとマッチポンプをやっているふしがあるのである。
 以前、SWOT分析で説明したように、自分の制御が及ぶ
内部環境とそうでない外部環境は分けて考えるのである。
「考える」ことが絶対的に正しいと勘違いした連中は、
それこそ考えたほうがいいだろう。

■トランプやプーチンは世界を救わないという断定

 先日ツイッターを巡回していると、スピリチュアルを
生業とするある業者が、「自分のサロンではトランプや
プーチンは世界を救わないから自分の未来は自分で切り
開くことを伝えている」旨のツイートしているのを見た。
 これも、「考える」ことが絶対的に正しいと勘違いし
ていなければ出てこないセリフなのである。「トランプ
やプーチンは世界を救わない」の部分は、別に言う必要
もなければ、今の時点で断定する必要もないはずである。

 それに、この連中はこの世には善悪真偽はないという
のを言説としているのが特徴であるが、この件はなぜか
全力で断定して否定してくるという矛盾であるうえに、
外れる確率のほうが高いというおまけつきである。
 また、不特定多数向けに発するスピリチュアルとして
の一般論を、個別セッションの場にテンプレートとして
持ち込むのもおかしな話である。「個別」であるならば
対応が違って当然なのである。実に楽な仕事である。

 国家間の戦争を含む争いごとは両建てで行われ、その
裏で金儲けしている真の悪が存在していることは、この
界わいでは常識であり、2016年から始まるトランプ革命
でさえ両建て構造の片割れである可能性は否めない。
 トランプやプーチンというおそらくディープステート
(影の政府)と戦っていると思われる存在を「妄信」する
のは違うと思うが、しかしながら両建て構造の片割れで
あると今の時点で断定するのも当然違うのである。

 今後、ディープステートせん滅作戦が終了して世界が
平和になり、実質トランプとプーチンによる独裁支配と
なったが、世界の人々はなぜか幸せに生活している状態
になったとしよう。
 それでも、独裁そのものが悪い、トランプとプーチン
そのものが悪い、考えること、すなわち自立して生きる
ことが絶対的に正しいと連中は考えるのだろうか? 連中
が今の時点で断定しているのは、そういうことである。

 そういった外部環境はいっさい関係ないとし、すべて
自分の力だけで幸せになれるという思い上がった考え方
は、同時にこれまでディープステートが行ってきた悪事
の数々さえ不問とする考えにもつながるのである。
 スピリチュアルもそれなりの規模の産業となっている
が、そのほとんどの連中が新自由主義者と一緒になって
自己責任論を振りかざした成れの果てとしての今の世界
がもう答えであるし、むしろこれを望んでいたのである。

■まとめ

 管理者は、「考える」ということは、合理的であると
いうだけであり、絶対的に正しいというわけではないと
考えている。同時に「考えない」ということが絶対的に
間違っているとは考えていない。
 しかし、「考えているようで実は何も考えていない」
ということは、誤誘導されるだけでなく、他者に冷酷な
側面を持ち合わせるから、絶対的に間違っていると考え
ているのである。
posted by iceage at 16:14| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2023年01月03日

協調性という言葉の欺瞞(ぎまん)


 前回、会社の飲み会を批判する記事の最後に「誤った
協調性」という表現を用いた。管理者を含め、飲み会を
嫌うような層は、同時に協調性という言葉も聞くだけで
虫唾が走るレベルで嫌っているだろう。
 子供のころの学校の通信簿にも必ず出てくるこの協調
性という言葉は、なぜ協「調」性なのか、なぜ協「力」
性と呼ばないのか、そういう観点から、この言葉の欺瞞
(ぎまん)をあぶり出していこうと思う。

■協調性の本来の意味

 協調性の本来の意味は「利害の一致『しない』者同士
が『お互い』に歩み寄ること」である。強調したように、
双方向なのである。しかし現実はどうだ? 連中が自分に
歩み寄ったことなど、ただの1度たりともないだろう。
 連中の価値観は絶対に動かない。現実は少数派が多数
派に、頭のいい人たちが頭の悪い連中に、「一方的に」
合わせる性質になり下がっているのである。これは協調
性ではなく同調性である。

 学校の通信簿についても、周囲に合わせてやっている
という「実際の結果」ではなく、周囲に合わせてやって
いるという「その態度」で評価している教師が圧倒的に
多数である。
 そんな体たらくで、教職に携わる連中の永遠のテーマ
であるいじめ問題を撲滅できるとでも本気で思っている
のだろうか? そもそも、いじめは集団主義が原因である
と端的に言える教師がどれほどいるだろうか?

■協調性がないのはそのとおり

 こういう協調性という言葉の欺瞞がわかっていたから
といって、自分に協調性がないのはそのとおりであるし、
そのことについて恥じるつもりもさらさらないのである。
なぜなら、その同調する事象に価値がないからである。
 連中が同調を求めてくるその事象は、例外なく論理的、
道理的に間違っているからである。まして、非国民など
と攻め立てるほどの事象が正しかったことなど、歴史上
ただの1度たりともないのである。

 個人主義者に多いが、この手の問題に悩まされ、とき
には歴史に学ぶことをした経験のある者であれば、事象
を多数決で判断することはない。あくまで論理的、道理
的な観点から判断しているのである。逆張りとは違う。

■新型コロナワクチンの強要という例

 まさに現在進行形である、新型コロナワクチンの強要
こそが最たる例である。そもそも、新型コロナワクチン
の化学的な視点だけでも、インフルエンザワクチンとは
比較にならない、数年後の生死を分かつほどの毒である。
 まして、そういう情報を調べもせず、2021年から開始
している尋常でない超過死亡の事実も知らず、何年も前
から政府が大本営と化している事実も知らず、その政府
の言うことをうのみにして、強要してきているのである。

 しかも「思いやりワクチン」などというくだらん言葉
まで使っているのである。連中が自分に対して思いやり
をかけたことなど、ただの1度たりともない。その言葉
が響くとでも本気で思っているのだろうか?
 結果、接種者はスパイクたんぱく質やコロナ変異種を
放出して逆に周囲に迷惑をかける体となり、非接種者は
以前と変わらない。表面上の態度を優先することの愚か
しさの最たる例である。世の中、結果がすべてなのだよ。

■まとめ

 筋金入りの個人主義者にとっては、上記の内容など今
さら感であるほど過去の経験で幾度となく見てきたこと
であり、ときには哲学などに情報を求めて歴史に学んで
きたことである。何もコロナ騒動が特別なわけではない。
 個人主義者は、自分が個人主義であることを自覚して
歴史にも学んでいるが、集団主義者は、元より集団主義、
個人主義という概念すらなく、ゆえに歴史に学ぶという
境地にもたどり着けない。

 今はディープステート(影の政府)との見えない戦争の
最中である。見えない分、終戦したら突然に集団主義者
は経験にすら学べない愚者であったことが確定し、その
称号が(残り短い)生涯つきまとうことになるのである。
 自覚、無自覚に関わらず、集団主義者であり、周囲に
実害を及ぼすことは、それほど罪深いことであるという
現実をこれから突きつけられることになる。そして、今
さらそれを悔い改める時間はもうないのである。
posted by iceage at 18:31| Comment(0) | 個人主義と集団主義 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする